ページの先頭です

おおぼらふき・ししいわ ものがたり

[2015年1月13日]

おおぼら吹き(おおぼらふき)

むかし、大久野にとてもすごいおおぼらをふく男がいた。平井にも、これにおとらない(劣らない)おおぼらをふく男がいた。

あるとき、この二人が道でバッタリ出会った。平井のおおぼらふき、持ち前のほらをふいておどろかしてやろうと、
「ずいぶんきのうは、平井の方ででっけえ風が吹いたアぞ。すげえものよ。なにしろお前、平井ツ原のニンジン・ゴボウがどっかへ吹っとんじゃったアからなア。まったくあんなでっけえ風は、はじめてだった」とまじめくさって言った。

すると、大久野のほらふきも負けずに言った。
「へえ、そうかい。そんなに、平井の方でもでっけえ風がふいたのかい。大久野の方もすげえものよ。ふいたの、ふかねえのじゃねえ。なにしろ、天正寺のつりがね(釣鐘)が吹っとんじゃったあからなあー。どこへ吹っとんでるかとさがしたら、みょうらくじ(妙楽寺)の本堂のはふ(破風)のところの、クモの巣にひっかかって、フラリフラリとしていたからなアー」

おわり

獅子岩ものがたり(ししいわものがたり)

獅子岩

大久野のみのくち(水口)の西徳寺には、かたちがしし(獅子)ににて(似て)いるところから「獅子岩」と呼ばれる大きな自然岩がある。これは高さが1メートル半、幅1メートルほどである。

そのむかし、戦国時代に滝山城の城主ほうじょううじてる(北条氏照)がこれをしょもう(所望)し、たくさんの人夫を使って運び出そうとしたが、境内より外へは一寸たりとも動かせなかったという。

永禄12年正月のことである。氏照は家臣の野村源兵衛に命じて、石を運び出すため数多くの人夫を西徳寺に送った。そして、石を門前の橋まで運び出したが、どうしたことか今までらくらくとかつげたというのに、石に根でもはえ(生え)たのだろうか、とつぜん動かなくなった。

「まだ日も高いし、まさかキツネやタヌキのいたずらとも思えない」
「せっかく、殿さまが望まれた石、運べぬとあっては、きびしいおとがめ(お咎め)があるやもしれぬ。もう一度みなの者、かついでみようではないか」と口々に言い合い、今度はぼう(棒)が折れるほど力を入れてみたが、やはり動かない。ついに人夫たちは疲れはててしまった。

「そういえば、この石はむかしから獅子岩といってな、ほれ、獅子のかたちをしておるだろう。いろいろと不思議なことがあったそうだ。今度も住みなれた西徳寺をはなれるのがいやなのだろう。もうやめるよりほかはあるまい」このように土地の古老が話したとき一人の僧侶が近づいてきて言った。

「なに、この石が動かぬと。動かぬのも道理じゃ。これは観音さまの霊石である。なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)、なむあみだぶつ」これを聞いた人夫たちはすっかりおじけ(気)づいてしまった。やむなく、石運びはちゅうだん(中断)され、ことのしだい(次第)をうじてる(氏照)に報告するため、人夫監督役の野村源兵衛は、滝山城へと引きあげていった。

源兵衛はしゅくん(主君)にめどおり(目通り)を願い、石を運び出せなかったいきさつを伝えた。
「土地の者が申しますには、石のかたちがまれに見るめずらしいものであるがゆえに、いにしえより、たびたび所望されてまいりましたが、いまだかつて、いちどもけいだい(境内)から出たことがないとのよし。かたちが獅子に似ているので、獅子岩と呼んで恐れております。石にもせい(精)があるものとみえます」

「獅子岩とな。なるほど、古い書物に「獅子一叫すれば百獣脳烈する」と書いてあった。無理に引き出すにはおよばぬ。もとの所へ納めておくがよい」氏照はこうこたえて、まもなく石はもとの場所に戻されたという。

時代は変わり、江戸時代の代官おおくぼいわみのかみながやす(大久保石見守長安)が八王子にいたときにも、この石を所望したが、やはり門前の橋までしか動かなかったという。なお、この橋は獅子が戻ったというので、もどりばし(戻橋)といわれている。

おわり

お問い合わせ

東京都 日の出町 文化スポーツ課文化財係

電話: 042-597-6539 ファクス: 042-597-2623

お問い合わせフォーム


おおぼらふき・ししいわ ものがたりへの別ルート