おおくのの とうば・こしかけ いし
大久野のとうば
とうば(卒塔婆)が作られるようになったそのはじまりには、いろいろな説があって定かではない。塔婆を江戸に売り出すようになったのは、だいたい元禄時代からであるといわれている。
大久野新井の「南」という家に、惣兵衛という人がいた。惣兵衛は代々、百姓をしながら山を買い、木を伐採し、こびき(木挽き)をしたり、また使用人をおいて山仕事をさせるもとじめ(元締)でもあった。
大久野の羽生には「中羽生」という家があり、文右衛門という大百姓がいた。あるとき、惣兵衛と文右衛門がせんだつ(先達)となり、ほかの気の合った仲間と連れ立って、おいせまいり(お伊勢参り)に出かけることにした。
道中、無事にお参りを済ませると、京・大阪を見物して、帰りのと(途)についた。大津・草津と東をさして下り、ちょうど遠州(現在の静岡県)浜松の近くまできたときのことである。道ばたにたくはつすがた(托鉢姿)の坊さんが急のやまい(病)で苦しんでいた。
ここは東海道の大きな宿場で、行きかう(交う)人々が多かったが、だれ一人として病人に振り向こうともしなかった。しかし、そこは武州多摩郡の山里の人々である。心が厚く、だまって見すごすようなことはしなかった。広いちしき(知識)を持ち、少しいじゅつ(医術)の心得があるという文右衛門は、持ってきた薬を与えてかいほう(介抱)した。
やがて坊さんはいくらか落ち着いてきた様子で、こう言った。
「旅のお方と存じますが、ご親切にお世話下さり、ありがとうございました。お礼というわけではありませんが、皆さまはまだお宿もお決まりでないご様子。私どもの寺へお泊まりください」
この言葉を聞いて、大男で力のある惣兵衛は、それではと坊さんをせお(背負)った。そして着いてみるとそこはりっぱ(立派)な寺であった。坊さんは一同の者を厚くもてなし、「私も若いころ、江戸で修業をしていましたので、あちらの様子も少しはわかります」と話しをしてくれた。するとそのとき、寺の若者が馬を引いて出てきた。そして、坊さんに「ではごぜん(ご前)さま、行ってまいります」とあいさつ(挨拶)をした。
見ると、馬のくら(鞍)に長いものがつけてある。なんであろうかと尋ねると、坊さんは「あれは塔婆といいます。寺の出入り口の大工に作らせて、末寺まで届けるところです。私が思いますに、皆さま方のお住まいは江戸から10里ぐらいしか離れていない多摩の山にある村であるとか。山にはもみのき(樅木)もたくさんございましょから、樅で塔婆を作り、江戸の寺に売り出したらいかがでしょうか」と言って、その作り方を教えてくれた。文右衛門と惣兵衛は「よいことを教えていただいた」と厚くお礼を述べ、寺を後にした。
袋井・掛川・島田と帰る道すがら、惣兵衛は「おれは一年じゅう山仕事をしている。塔婆の材料を作るのはあさめしまえ(朝飯前)のこと。おれが板を作るから、文右衛門さんはそれを塔婆にして江戸へ持って売り出したら、うまい商売になるかもしれんぞ」と話した。
文右衛門は、山の中で木をあつかう(扱う)仕事がいちばんよいことは知っていた。塔婆を作れば人々の仕事が増えて、人助けにもなると思い、さっそく作ってみようと心に決めた。家に着いて、塔婆を作り、江戸の寺々へ売り出してみたところ、これがまたとぶように売れた。こうして、塔婆作りがはじまったが、やがて、この商売をはじめる人が増え、大久野の塔婆はいちやく有名になった。
おわり
腰かけ石(こしかけいし)
大久野のみのくち(水口)に、無量山西徳寺という禅寺がある。その裏山には「腰かけ石」とよばれる大きな岩がある。
この寺は、いく度かの火災にあって焼失したが、そのたびごとに再建されてこんにち(今日)にいたっている。ところが、ほんぞん(本尊)さまだけは、たびたびの災いにもかかわらず、そのなん(難)をのがれてきた。
むかしから、こんな話が伝えられている。あるむし暑い夏のゆうこく(夕刻)、一天にわかにかき曇り、はげしい夕立となった。すると、いっしゅん(一瞬)めもくらむいなずま(稲妻)とともに寺にかみなり(雷)が落ち、お堂はたちまち火の海となった。村人はなすすべもなく、ただ焼けるにまかせるよりほかになかった。
ちょうどそのときである。寺の門前からまっ黒い大きなかたまりが火のなかに飛び込み、かけ(駆け)抜けるように裏山へと消えていった。
しばらくのち、さしもはげしかった夕立ちが、うそのようにあがり、あたりは静かなくらやみ(暗闇)となった。つぎの日の朝、村人たちは寺の焼け跡の片づけに集まってきた。
「ゆんべのようだち(ゆうだち)はずいぶんでっかかったなあ」
「とてもおっかなかったよなあ」
「本尊さまも焼けちまったんべえか」などど話し合いながら作業を続けていると、一人の男が言い出した。
「ゆんべ、ようだちがあがってから寺の裏山に光るものが見えただ」すると、「おれも見えたよ」と言う者がいた。そして、そんな話しをする者が一人、二人、三人、四人と増えていった。
それではと、「おおぜいで見に行ってんべえ」ということになり、それを確かめに裏山に登ってみた。あちこちをさがすうちに、「あっ」といちどう(一同)がさけんだ。
昨日まではなにもなかったなだらかな山の中腹に、いくかかえもある大石が突きささり、その大石には右うで(腕)を火傷した本尊さまが腰かけていたのである。
あのはげしい火で焼け失せたはずの本尊さまが「どうしてここに」と、村人たちはあ然としながらも伏し拝んだ。火災のなかへ飛び込んでいった黒いかたまりこそがこの大石であり、本尊さまをぶじ(無事)に裏山へ救い出してくれたのであった。それ以来、この岩は西徳寺の「腰かけ石」と呼ばれるようになったという。
おわり
(注)西徳寺は、たびたび火災にあっている。この話しは万治年中(1658~1661)に起きたでき事であるといわれている。(「新編武蔵風土記稿」)
その後も火災があり、天明5年(1785)11月、西徳寺ではどうしゃ(堂舎)を修復するため、玉の内の保寿院から祠堂金八両を借用している。(「金子安雄家文書」)
寛政8年(1796)には、2月27日が建て始めで、3月6日にむねあげしゅうぎ(棟上祝儀)が行われている。このように西徳寺はたびたび建てなおされている。堂舎が完成したためか、寛政12年(1800)には、本尊を寺に入れて「三十三年開帳入仏」を行っている。その後、ちょうど三十三か年を経て、天保3年(1832)3月19日にふたたび開帳が行われた。(「古山洋一家文書」)
これらによって、話しと史実にはなんらかの一致点が見いだせるようである。なお、本尊ばとうかんのん(馬頭観音)の右肩は別材をはぎ寄せているが、どのような理由によるのか、けっしつ(欠失)している。
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